慶應義塾 創立150周年記念 未来をひらく 福澤諭吉展(福沢諭吉展)

福澤研究センター 都倉武之が語る
福澤展のツボ

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東京国立博物館と福澤諭吉の因縁

Img_2257 ケース等の撤収作業はまだ完全に終わっていないかと思いますが、一応今日をもって我々の表慶館での作業が終了しました。ホッと一息つく暇もなく、福岡・大阪展、さらに神奈川と続きます。明日は大阪出張です。

さて、今まで黙っていましたが、東京国立博物館と福澤には、深い因縁があります。それは九鬼隆一という人物を巡るものです。九鬼は、日本の美術史を語る上では大変な恩人の一人です。岡倉天心と共に日本美術の再評価に努め、美術行政にも力を注ぎ、文化財保護に多大な貢献をした官僚政治家として名を残しています。

ところが、九鬼は、福澤との関係ではたいそう評判のお悪い方です。彼は明治4年(1871)に慶應義塾に入塾した福澤門下生でもあります。出身は兵庫県の三田(さんだ)。ここは、お殿様以下、多くの人が福澤を慕い強い影響を受けた地域で、展覧会で取り上げている沢茂吉(北海道浦河の開拓者)も同郷です。ちなみに今何かと話題の白洲次郎、その祖父・白洲退蔵も三田の出身で、福澤門下生です。

福澤が、大隈重信、三菱とともに政府転覆の疑いを向けられ、福澤門下生がことごとく官界を追われた「明治14年の政変」の時、九鬼は官界に残ることができました。それどころか、政変前、福澤の周囲に盛んに出入りし、時には家で泊まり、見聞きした情報をすべて薩長の政治家に内通していたといわれているのです。福澤は政変後、このことに激怒、以後一切の交遊を断ちました。

ところが、およそ3年後の明治17年、福澤の元を、ひょっこり九鬼が訪問します。駐米公使としてアメリカに赴任するための挨拶でした。大人の対応をした福澤でしたが、その数日後、アメリカ留学中の二人の息子に対して、「九鬼が近寄ってきても決して付き合うな」という意味の手紙を書き送っています。福澤がいかに九鬼を危険視していたかがわかります。

福澤が美術について余り熱心に発言せず、むしろ消極的とも取れる発言を繰り返したのは、美術行政を握っている九鬼への憎悪に由来する、という見解もあるほど、二人の関係は緊張状態にありました。『福澤諭吉伝』において、これらの経緯を記述している箇所では、九鬼の名前が伏せ字になっているほど、それはそれは、強烈な憎悪であったといえるでしょう。

Pf000136_2 この怒りは、福澤生前に解けたのでしょうか。生涯許すことがなかった、という見解もありますし、九鬼が謝罪して交遊を再開した、という人もいます。今回の福澤展には、福澤と九鬼が一緒に写った写真が1枚だけ含まれていました。それは資料番号でいえば5-P02「福澤諭吉と慶應義塾出身両院議員たち」という写真です。前列中央に福澤、その左に一人おいて九鬼が写っています。二人の表情は、いずれの答えも示していません。同席しているからには和解しているともいえそうですが、福澤は涼しげな無表情、九鬼は福澤から離れるように、妙に左に寄ってこれまた無表情に写っています。

この九鬼隆一が、東京・奈良・京都からなる帝国博物館(現在の国立博物館)の初代総長だったのです。その後身の一つである東京国立博物館で、福澤諭吉展を開催するというのは、いかなる因縁でしょうか。そして、福澤と九鬼は、どのような表情で、この展覧会を見ていたことでしょうか…?

皮肉なる交錯であったか、歴史的な和解であったか、真実は冥界の両者のみぞ知る!といったところでしょうか。

2009/03/11 23:58:00
未来をひらく福澤諭吉展 2009 東京,福岡,大阪

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