慶應義塾 創立150周年記念 未来をひらく 福澤諭吉展(福沢諭吉展)

福澤研究センター 都倉武之が語る
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福澤諭吉と同志社(2)

新島襄が亡くなったとき、福澤の新聞『時事新報』は、社説を掲げています。人々がいたずらに官途を求め、功名栄誉ばかりを追いかける官尊民卑に走り、真の独立ということを顧みない現状の中で、新島は「真の独立の士」であったという内容で、次のようにその死を悼みました。

「今新島氏は今世の流俗に処してその流に流れず、教育宗教のことに熱心して多年その節をかえず、真に独立の士と称すべし。その身死するもその名は消すべからず。天下後世、氏の遺風を慕うて起つ者あるべし。またもっていささか地下の霊を慰めるにたるべきか。我輩は今その訃音に接し、日本社会独立のためにこの流の一人を失いたるを惜しみ、いささかここに弔意を表するものなり。」(明治23年〔1890〕1月26日付「新島襄氏の卒去」)

両者には宗教をバックボーンとするか否かに違いはあれ、「私」の立場から世に尽くそうとした姿勢は共通するといえるかもしれません。時事新報の社説からは、相まみえることはなかったものの、志を共通する人が一人いなくなってしまったことへの福澤の痛惜が感じられます。

お互いにキリスト教に対する姿勢をめぐって、わだかまりもあり、会う機会がなかったように想像されますが、もし会う機会があったとすれば、相互に理解し合うところがあったのではないかと、密かに思ったりします。福澤という人は、とかく議論を巻き起こす人で、言葉が一人歩きすることも多く、あらぬ誤解を受けて嫌われることが少なくありませんでした。会うまではいけ好かないと思っていたけれども、会ってみたら誤解が氷解、という話は、大隈重信との出会いをはじめ、何人かの著名人と福澤の出会いについて語られています。

共通する志あればこそ、慶應義塾と同志社は交流も自ずと深まっていったのかもしれません。

2009/07/25 17:11:14
未来をひらく福澤諭吉展 2009 東京,福岡,大阪

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