慶應義塾 創立150周年記念 未来をひらく 福澤諭吉展(福沢諭吉展)

福澤研究センター 都倉武之が語る
福澤展のツボ

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福澤諭吉と同志社(1)

福澤諭吉の作った学校といえば慶應義塾なのですが、この慶應義塾は、関西では新島襄の同志社との交流が深いようです。スポーツの分野でも「慶同戦」は伝統が長いと聞きます。

ところで、明治時代の教育者としてよく比較される福澤と新島ですが、面会の機会はなかったといわれます。新島はキリスト教を中心にすえた教育を行った人物で、一方の福澤はある時期までキリスト教に否定的な立場でした。その一方で浄土真宗を非常に高く評価していたことは、改めて書いてみたいと思っています。

冗談のレベルですが、福澤の3大オンチと呼ばれることがあるものがあります。それが美術、文学、そして宗教です。福澤の書いたものを読むと、宗教については、どれが正しいか(福澤は「正邪」という言い方をします)よくわからないし、論じません、と最初に断ってあります。その上で…と、彼は社会との関わりから宗教を論ずるのです。ですから、キリスト教を批判していた時期も、教義を批判するのではなく、日本人への布教の仕方や、日本人の独立心との関係から批判しています(福澤がキリスト教容認に転じるのは明治17年)。

福澤のキリスト教への批判的姿勢は有名だったようなので、キリスト者からは大層嫌われたようです。しかしその一方で、日本にいる外国人宣教師とは日常的に親しく、家に居候している人もいました。こんな話があります。ある時期にホールという女性宣教師が、福澤家の2階に居留していました。その女性が毎朝のお祈りで「なにとぞ下にいる悪魔共の罪をお許し下さい…」と言っている声が聞こえてくるのが気になった福澤が、思い切って悪魔とは何のことかと聞いたところ、福澤とその家族のことだったというのです。これは福澤から直接聞いた話として『福澤諭吉伝』という本に出てきます。これでホールさんを追い出すような短気はなく、福澤は信仰の「熱心には感心した」と語ったそうです。

090723 今回の展覧会では、福澤が亡くなったときに同志社の人々から送られた弔電の1通を展示します。新島襄の信頼厚かった広津友信という人物からの弔電です。これは是非会場でご覧頂くとして、もう1通残っていた同志社からの弔電(画像)をご紹介しましょう。

差出人は「キヨト/ドウシシヤ/マヱサワトラキチ」(またはトウキチ)となっていて、宛先は福澤の女房役といわれて信頼された小幡篤次郎。本文は次の通り。

「アアフクサワセンセ/ノヱミンヲカナシム」(嗚呼、福澤先生の永眠を悲しむ)

通り一遍の弔文が多い中、なかなか感情のこもった電報です。今回ちょっと調べた限りでは、これが一体どなたなのか、よくわかりませんでした。おわかりになる方は、是非ご教示下さい。

2009/07/23 17:04:00
未来をひらく福澤諭吉展 2009 東京,福岡,大阪

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