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展示会のみどころ

本展は、福澤諭吉の思考と活動の輪のひろがりを、第1部から第6部へと、関連するさまざまな資料に即して紹介します。

まず、福澤自身の個人の生活を紹介し、ついで家族の交わりや市民同士の交際の場の確立へ、そして慶應義塾における教育活動、近代社会の実業発展にむけた貢献へ、さらに公共分野での先進的な取り組み、また国際社会への提言へと展示を進めます。第7部は、福澤の門下生たちが収集した美術コレクションを中心に、絵画や工芸の優品を展観します。

なお、福澤が慶應義塾の原点となる理念を述べた「山口良蔵宛書簡」を本展覧会にて初公開します。

また、展示される資料の情報は適宜追加して参ります。「展示品情報」もご参照ください。

第1部 あゆみだす身体

独立した個人の基盤として「身体」を重視した福澤は、居合い・米つき・散歩を日課とし、家族団欒をこよなく愛した生活人でした。この思想の巨人を、一人の生き生きした日常の姿でとらえ、散歩の際の携行品や家族写真をはじめとする日常愛用の諸資料から、等身大で再現します。

1.福澤諭吉落款印〈三十一谷人〉
慶應義塾福澤研究センター
福澤が雅号のように用いた「三十一谷人」の五文字は、権威を嫌った福澤らしく「世俗」という漢字をばらしたもの。
2.散歩中の福澤諭吉
慶應義塾福澤研究センター
学生有志を「散歩党」と称して毎朝出掛けた福澤の散歩姿を捉えた写真。
3.大熊氏広おおくまうじひろ〈福澤諭吉座像〉
明治25年(1892) ブロンズ
慶應義塾志木高等学校
日本近代彫刻の先駆者大熊氏広による、福澤本人を前にして制作された唯一の彫刻。しかし自らが偶像視されるのを嫌った福澤自身が蔵にしまいこみ、はからずも第二次世界大戦中の供出を免れた。
4.川村清雄かわむらきよお〈福澤諭吉肖像〉
明治33年(1900) 油彩・カンヴァス
慶應義塾塾監局
福澤の写真をもとに描き始め、仕上げにいたって福澤本人を前にして描かれた作品で、福澤晩年の姿をもっともよく伝えるという。
第2部 かたりあう人間(じんかん)

「独立して孤立せず」。独立した個人はいかに社会を形成するのか──男女間、家族、そして「社中」、「塾」の創成にもとづく市民的な社交。福澤の描いた個と個の交際、「人間交際(Society)」の思想と実践を紹介します。

5.福澤諭吉『女大学評論・新女大学おんなだいがくひょうろん しんおんなだいがく』署名本
明治34年(1901)
慶應義塾福澤研究センター
福澤の最後の著書である女性論。「男子またこの書を読むべし」との自筆書き込みは、死の直前のもの。
6.女性宣教師アリス・ホアと福澤の姪ら
明治9年(1876)頃
イギリス人宣教師ホアは福澤家に住み込み、援助を得ながら少女たちに英語やキリスト教について教えた。
7.福澤夫妻肖像写真
明治33年(1900)
慶應義塾福澤研究センター
福澤は封建的な男女観の打破を生涯を通じて唱えた。明治の時代に夫婦での肖像写真は珍しい。
8.交詢社社屋 こうじゅんしゃ
明治時代末〜大正時代頃
福澤が理想とした独立した個人の集う場として明治13年(1880)に創設され、今なお続く日本初の社交クラブ。
第3部 ふかめゆく智徳

独立自尊の個人の育成を望んだ福澤の教育活動。自身の知の形成と慶應義塾におけるその展開が、150年の歴史を語るさまざまな展示品から、よみがえります。福澤は知性とともに気品の涵養をめざす学塾教育を実践し、格式を嫌い、型破りな自由さを貫きました。「僕は学校の先生にあらず」と断じ、生徒と教員とをいわば対等にとらえる書簡などからその独創性を示すとともに、現在の慶應義塾における研究・教育の先端的試みの一部も紹介します。

9.福澤諭吉『福翁自伝』原稿(緒方の塾風)
明治30-31年(1897-98)
慶應義塾福澤研究センター
大坂・適塾生として青春を謳歌した日々をこんにち読んでも大変面白い様々なエピソードを踏まえて愉快そうに振り返っている。
10.慶應義塾分校(大阪慶應義塾)設立願
明治6年(1973)
慶應義塾福澤研究センター
明治6年から8年にかけて置かれていた慶應義塾の大阪分校の設立願書。短期間ではあったが、100名弱の塾生が学んだ。
11.早慶戦開始の挑戦状
明治36年(1903)
慶應義塾福澤研究センター
明治36年(1903)に開始され、日本中を熱狂させた早慶野球戦。そのきっかけを作った早稲田大学野球部から慶應義塾野球部への挑戦状。
12.福澤諭吉〈独立自尊迎新世紀どくりつじそんしんせいきをむかう〉遺墨いぼく
明治34年(1901)
慶應義塾福澤研究センター
19世紀最後の日に世紀送迎会を開催し、20世紀を迎えた朝に揮毫した書。福澤はこの約1か月後に没し、事実上の絶筆となった。
13.和田英作わだえいさく〈ステンドグラス原画〉
1910年頃 油彩・カンヴァス
慶應義塾図書館
慶應義塾図書館にあるステンドグラスの原画。西洋文明と日本の伝統社会との出会いが主題となっている。
第4部 きりひらく実業

福澤は、官尊民卑の封建的思想を打ち破り、一国の独立の基礎に、実業への挑戦をおきました。いまだ尚武立国を旨とする時代に、あえて異例な「尚商立国」を掲げ、商=ビジネスの役割を説いて多数の経済人を輩出し、「福澤山脈」を築きました。とりわけ本展では、福澤の教えを受けた者たちが都市部での起業のみならず、日本の隅々まで挑戦の裾野を広げた事実に注目し、従来、あまり語られなかった「もう一つの福澤山脈」にも光をあてます。

14.福澤諭吉「尚商立国論しょうしょうりっこくろん」自筆原稿
明治23年(1890)
慶應義塾図書館
明治23年(1890)、『時事新報』紙上に発表された福澤の論文。官尊民卑を脱して経済人を尊ぶ必要を論じると同時に、彼らに「独立自尊」の気品を求める。慶應義塾のモットーともいえるこの語は、ここで初めて使用された。
15.オールドノリタケ ディナーセット「SEDAN」の内 ディナー皿、シリアル碗、ティー碗・皿
大正3〜10年(1914〜21)
ノリタケカンパニーリミテド
福澤門下生の大倉和親は、日本で初めて硬質白磁の大量生産に成功、製陶業の草分けとなった。
16.依田勉三決意姿よだ  べんぞう
明治14年(1881)頃
帯広百年記念館
依田勉三(明治7年入塾)は、北海道開拓の結社「晩成社」を結成して十勝に入植。凄まじい辛苦の中で生涯を終えるが、その活動は十勝開拓の礎となり「拓聖」と呼ばれた。
17.デニール検査用秤(下村亀三郎しもむらかめさぶろう資料)
上田市立丸子郷土博物館
下村(明治18年入塾)は、郷里の信州丸子で同志と近代的組合製糸である「依田社」を結成。従業員の福利厚生に尽くしつつ、海外において品質の信用を確立、丸子を糸の町に育てた。この秤は、厳密に生糸の規格と品質を守るために使用された。
第5部 わかちあう公

国と個人はいかなる関係にあるべきか。「公」と「民」の対立・協調は現代社会も直面する課題ですが、福澤は議会制の発展を希求しつつ、他方で明治政府の権威主義には徹底して容赦ない批判を加えました。同時に「公」と「民」をつなぐ新しいメディア、つまり「演説会」を創始し、中立的な日刊新聞『時事新報』を創刊しました。民の立場を貫きつつ、「公共」メディアの改革者であった福澤の活動を浮き彫りにします。

18.福澤諭吉〈伊藤博文いとうひろふみ・井上馨いのうえかおる宛書簡控〉
明治14年(1881)10月14日
慶應義塾福澤研究センター
近代日本の国家構想を決定づけた「明治十四年の政変」にあたり、伊藤・井上と交わされた息の詰まるやり取りを伝える長文書簡の自筆控え。以後伊藤・井上とは絶交状態に陥る。
19.『時事新報じじしんぽう』創刊号
明治15年(1882)
慶應義塾図書館
福澤が創刊した日刊新聞。明治後期から大正期には「日本一」の新聞と呼ばれ、メディアとして様々な先駆的アイデアも打ち出した。
20.「三田演説日記」
明治7年(1874)
慶應義塾図書館
福澤が門下生と共に始めた日本初の演説会の日誌。明治初期、演説は最新のメディアであり、また娯楽でもあった。
21.松村菊麿模写まつむらきくまろもしゃ〔原画:和田英作わだえいさく〕〈福澤諭吉演説像〉
昭和12年(1937) 油彩・カンヴァス
慶應義塾塾監局
コミュニケーション手段としての「演説」を日本において創始した福澤。その演説姿を描く。
第5部 ひろげゆく世界

福澤は近代世界の中の日本をどのようにとらえ、何を発言し、それは今日のわれわれにいかなる課題を残しているのでしょうか。アジアへの視点、そして彼がやり残した課題を問い直します。福澤の海外体験を検証しつつ、異文化への幅広い視野など、グローバリズムの現代からみても示唆深い彼の国際社会にむけた提言をあとづけます。

22.少女と写った福澤諭吉肖像写真
江戸時代 万延元年(1860)
慶應義塾福澤研究センター
初めての外遊で訪れたサンフランシスコで、写真屋の娘と写した有名な写真。女性と写っているだけでなく、刀をはずし着流しで撮っているのも珍しい。
23.グーテンベルク印行『42行聖書』
1455年頃
慶應義塾図書館
活版印刷を発明しメディア革命をもたらしたグーテンベルクによる印刷本聖書で世界に48セット現存するうちの一つ。様々なメディアを通して思想を世に説いた福澤も、若き日にロシアでグーテンベルク聖書を見ている。
24.乳母車(福澤諭吉アメリカ土産)
慶應義塾福澤研究センター
慶応3年(1867)の渡米の際、子供たちのために買って帰ったお土産。日本初の乳母車といわれ、人力車のモデルという説もある。
25.ロンドンでの福澤諭吉
江戸時代 文久2年(1862)
幕府遣欧使節の一員としてロンドンを訪れた際に撮影。
第5部 たしかめる共感

福澤諭吉は、実学を国の基礎として重んじる一方、「国光は美術に発す」との言葉を残しているように、近代の人間社会に果たす芸術や文化の役割をよく認識していました。そして、門下生たちは実業の世界にあって文化的な交際を大切にしました。本展では、福澤諭吉に教えを受けた門下生らが収集した美術コレクションの名品を展示します。また、国宝〈秋草文壺〉など、慶應義塾所蔵の貴重な作品の展観も行います。

26.〈秋草文壺あきくさもんつぼ
平安時代(12世紀) 渥美
神奈川県川崎市幸区南加瀬出土
慶應義塾 国宝
神奈川県川崎市で発見された渥美窯の壺。草花の優美な線刻表現は、王朝貴族の美意識に通ずる。
27.〈五彩魚藻文壺ごさいぎょそうもんつぼ
中国・明時代(16世紀)
福岡市美術館 重要文化財
松永安左エ門の旧蔵品。魚に水草をあしらった蓮池魚藻の図様は、元から明にかけて美術工芸の分野で広く好まれた。明時代には、本作品のように青花を下地として数種の色釉で上絵付けした、「五彩」が制作された。
28.〈色絵金銀菱文重茶碗いろえきんぎんひしもんかさねちゃわん〉野々村仁清
江戸時代(17世紀) 1対
静岡・MOA美術館 重要文化財
実業界で活躍した後、茶人として名を馳せた益田英作の旧蔵品。江戸時代初期に活躍した京焼の大成者仁清の入子式の茶碗。金銀の菱文を大胆に配し、鮮明な赤・緑・黒の色彩を金色の界線で纏め上げた斬新な文様は、端正な器形によく映え見事である。

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