2008/5/19 | 講演会の模様が、山陽新聞に掲載されました。
(※この記事は、2008年4月20日付、山陽新聞朝刊に掲載されたものです。)
死とどう向き合うか 複雑、多様化する選択
慶應義塾創立150年を記念した講演会「学問のすゝめ21」(慶應義塾主催、山陽新聞社共催)が先月30日、岡山市駅元町、岡山コンベンションセンターで開かれた。「終末期のケアを考える」をテーマに、俳優の石坂浩二さん、慶應義塾大の池上直己教授、同大大学院の井田良教授が講演した後、文筆家の阿川佐和子さんを交え、パネルディスカッションを開催。会場には約700人が詰め掛け、誰しも訪れる死をどう迎えるか議論を深めた。
(阿部光希、赤沢昌典、河内慎太郎)
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■講演 「良い患者にならないために-ひとりひとりにとってのQOL-」
痛みは我慢せず訴える
俳優 石坂 浩二さん
私が直腸がんになったのは6年前、時代劇「水戸黄門」に出演していたとき。時代劇俳優の職業病ともいえる「痔(じ)」を患っていたが、ある日普段は無い出血に気づき、病院で検査を受けた。触診後に「立派ながんです」と即断された。
私のがんは第二期の終盤。内部へ浸潤している可能性があることから切除手術を勧められ、「水戸黄門」は降板。手術後も闘病に専念したが、「痛かった」というのが感想。一般の病室に移ると、寝たきりによる機能低下を防ぐため、管がつながったままでも歩くよう指示された。
患者が「痛い。何とかして」と訴えると、「我慢できないですか」「痛みに弱いね」と医師から言われてしまうことがある。医師に恐縮して手を煩わせない“良い患者”になろうとする人も多い。
だが、私は誇りに思うくらい“良い患者”ではなかった。我慢して断続的な痛みが続けば、マイナス思考を招き、人間を弱らせてしまう。鎮痛は、自らのQOL(生活の質)を高める上で大切な要素。多忙とはいえ医師も人間同士のつながりで成り立つ“接客業”なのだから、患者は「痛いところは痛い」と言うべきだと思う。
医療は検査も技術も進歩している。
「白い巨塔」という医療ドラマがある。数十年前の作品では小さながんでも全摘出していたが、(主人公の上司役で出演した)最新作(2003年)では「全摘出」という表現は消えた。知り合いのディレクターが肺がんになったとき、がんの正確な部位をはじめ、広範囲の切除が必要な難手術になると、詳細に告知された。(患者が望めば)痛みを取り除く適切な処置もできるはずだ。
極端な話だが、直接死に至る病気が減っていけば、「どう死にたいか」を考え、理想の治療を自ら選択する時代が到来する。誰にも死は訪れるのだから、前向きに語っていきたいと(私は)結論づけている。
この考え方は終末期のQOLにとって一番大事。今後、がんのような病気は進行と痛みを最小限に抑えて生活する「共存」が主流になる。価値感は一人一人違う。現代社会のあふれる情報の中から、自分にとって価値ある生き方、死を選択してほしい。
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いしざか・こうじ 慶應義塾大在学中にドラマデビュー。映画「金田一耕助」シリーズやドラマなどに多数出演。著書に「金田一です。」など。2007年から厚生労働省の「健康大使」を務める。66歳。東京都出身。
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■講演 「亡くなり方を考える」
普段から家族と相談を
慶應義塾大教授 池上 直己さん
終末期とはどういうものかを三つのパターンに分けて話したい。
第一は寝たきりでもなく頭もしっかりしているが、がんなどで急に亡くなるパターン。第二は2~3年で肝臓や心臓などの機能が急に悪くなり入退院を繰り返すことで機能が落ちて亡くなるパターン。第三のパターンは認知症や老衰などで、いつからその状態が始まったのかはっきりせず、症状が5年以上にわたるケース。
第二、第三のパターンは積極的な治療をしても完治することはない。その場合、延命治療を望むかどうかが課題となる。
家族の意見は、本人を早く楽にさせたいと思う人から少しでも長生きしてほしいという人まで幅がある。このため、積極的治療を最期まで続けることが医師や家族にとって無難な選択になっている。
積極的治療と延命治療の違いは何か。前者は完治、後者は命を延ばすことが目的。完治はできなくても延命の可能性は常にある。
第二のパターンで延命治療を考えると、急に症状が悪化した場合、入院すれば改善の可能性はあるが、機能は元の水準より下がる。第三のパターンでは、経過が長くなれば介助しても食事を取ることが難しくなったり、食べ物が誤って肺に入ることで肺炎になって衰弱する場合がある。
延命治療するかどうかの意思決定はどういう場合に可能なのか。
たとえば認知症のケースでは、初期の段階に医師が本人の延命治療に関する意思を確認し、そのプロセスを文書に残すようにする。法的には完全ではないが、医師や家族は対応がしやすくなる。これを完全にするためには、米国の事前指示という方法が参考になる。
事前指示とは、どの範囲まで延命治療を望むかを規定の書式で記すもので、自分の意思が示せなくなった時点に備えて家族や子どもを代弁者として指定する。意思表示ができなくなった時点で発効し、それまでは何回でも書き換えられる。
宗教色の薄い日本では、できることなら小学校から終末期ケアについて教えることが求められる。入院した時点で考えるというのは難しいからだ。医師からできるだけ情報を集め、自分の亡くなり方について普段から家族とも一緒に考えることが重要だろう。
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いけがみ・なおき 慶應義塾大医学部卒。同大助教授などを経て、1996年から現職。日本医療・病院管理学会理事長、厚労省終末期医療等に関する調査検討会委員など歴任。著書に「日本の医療―統制とバランス感覚」など。58歳。
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■講演 「終末期ケアをめぐる医と法と倫理」
決定は慎重にチームで
慶應義塾大大学院教授 井田 良さん
法的な視点から終末期医療にアプローチする場合、安楽死と尊厳死という二つの問題領域が考えられる。
身体的な苦痛を緩和するために患者の死期を短縮させるのが安楽死。これに対し、意識を失って回復の見込みがない終末期の患者に自然な死を迎えさせるために、継続してきた治療を中止する行為を尊厳死と呼ぶ。尊厳死では身体的な苦痛の緩和・除去は問題にならない。この点で安楽死のケースとははっきり違う。
安楽死の問題を考えるにあたって1995年に出た東海大安楽死事件についての横浜地裁判決を紹介したい。この判決は、四つの要件が満たされれば、積極的に患者の生命を絶つ行為は適法とした。
まず、患者が絶えがたい肉体的苦痛に苦しんでいる。次に死期が避けられず死が迫っている。さらに肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない。最後に、患者が生命を短縮する明らかな意思表示があること。
この判決で注目すべきは、安楽死が合法となる根拠に自己決定権という思想を据えた点だ。ただ、積極的安楽死を合法化できるかというと問題もある。
つまり、横浜地裁判決のように合法化のために一定の要件を列挙したとしても、果たして具体的な場面でそれらの要件が満たされているかどうかを信頼性を持って確認できるのかということだ。
次に尊厳死問題の検討に移りたい。現在では積極的な治療によって人の死期をかなり先まで引き延ばすことが可能になっている。だが、ある時点で治療から撤退し、患者に自然な死を迎えさせることを認めざるを得ない状況も存在する。
それでは殺人とそうではない治療中止をどう線引きするか。この問題は極めて難しい。
恐らくわれわれは今後、時には線を引き間違えることもあるかもしれない。それでも試行錯誤しながら、少しずつ解決に近づいていくしかないのだろう。
そのためには、医師が単独で決めるのではなく、多数の医師や看護師で構成されるチームによって慎重に相談しながら進められる環境をつくることが重要だ。そうした土台の上に、患者本人の自己決定権を信頼できるものにすることが求められている。
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いだ・まこと 慶應義塾大卒、独ケルン大で法学博士号取得。専門は刑法と医事法。慶應義塾大法学部教授などを経て2004年から現職。日本刑法学会常務理事などを務める。著書に「刑法各論」など。52歳。東京都出身。
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■パネルディスカッション
◆出席者
俳優 石坂 浩二さん
慶應義塾大教授 池上 直己さん
慶應義塾大大学院教授 井田 良さん
文筆家 阿川 佐和子さん
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あがわ・さわこ 慶應義塾大文学部卒。テレビ、ラジオに出演するほか、檀ふみさんとの共著「ああ言えばこう食う」で第15回講談社エッセイ賞受賞。2000年「ウメ子」が第15回坪田譲治文学賞を受賞。54歳。東京都出身。
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阿川 終末期を考えるのは、死について考えること。死は誰にでも訪れるけれど、安楽死や尊厳死、緩和ケアといったさまざまな問題を見ると、死ぬまでの選択は非常に多様化してきている。
石坂 倫理にかかわってくる問題だから難しい。その時代時代で揺れ動くから。例えば、昔は「桜のように散るのが美しい」と言ったり、「武士の情け」と介錯(かいしゃく)するとか、命自体が割と簡単に考えられていたように思う。
阿川 私は普段はピンピンしていて、ある日コロッと死ぬのが理想だった。でも最近、あと余命が何カ月と宣告されて、部屋をきれいにしたり子どもと交流を深めたり整理がついてから死にたいという人が結構いる。当然、自宅で死にたいという人も多いけれど、現実には周りになかなかいない。
池上 自宅で死ぬというと、同居の家族に面倒をみてもらうというイメージが強いが、高齢者専用住宅で亡くなる場合もあり、一概に負担をかけるというものではない。今は介護保険などである程度は介護サービスを受けられる。病院で亡くなる以外の選択を増やしていくことが今後の課題だろう。
阿川 今年百歳になる私の祖母は海の見えるきれいな老人ホームに入っているが、本人は家に帰りたがっている。施設では親身になって介護してくれているけれど、老人だけしかいないのは本来の社会としてはおかしい。老人ホームを造るなら隣に幼稚園を造るべきだと思う。
池上 少子化で、これから学校の建物や敷地が余ってくる。そこに保育園と老人ホームを一緒に造るというのは、一つの流れとしてあるのではないだろうか。
倫理に関わる難しい問題 石坂
老人ホームの隣に幼稚園を 阿川
自己決定の考え方広げよう 池上
ユーモア交え伝えられれば 井田
阿川 どんな死に方をするか事前に自分の「意思」をつくっておくことが大事という話があったが、実際には、苦しさから逃れたくて「死にたい」と言っても、後で気が変わることもある。何が本人の正しい意思かなかなか分からない。
井田 緩和ケアが進んできて、今は痛みをある程度コントロールでき、「死にたい」という状況は抑えられる。そういう意味では、終末期の問題の中心は安楽死より尊厳死に移ってきていると思う。
池上 日本の終末期医療で特徴的なものに、胃に穴を開けて栄養を送り込む胃ろうがある。認知症の人が肺炎を起こさないようにするが、これは完治する医療ではなく、延命するための医療で、海外ではあまりされていない。もともとは一時的に食べられなくなった人にするものであり、延命のための胃ろうは世界の動きとは少し違うと言える。
阿川 終末期を自分はどう過ごすか。若い時に遺言を書くようなきちょうめんな人は別だけど、普通は日常の生活に追われ、準備できないことが多いのではないか。
池上 認知症になった場合、本人の意思確認が難しくなる。だから、事前にどこまで延命治療するか家族としっかり話し合い、文章に残しておく。米国では、この「事前指示」が勧められている。
井田 医学の進歩で延命がかなりできるようになった終末期医療は、比ゆ的に言えば、ゴムひもを引っ張るようなイメージ。切れない状態で注意深く引っ張っていれば、そのままの状態を保つことは可能だが、いつかどこかで離さないといけない。だが、それは死に直結する。その行為が殺人か治療中止かという線引きをする上で、患者の意思が重要となる。
阿川 池上先生は「小さい時から終末期の教育をするべき」とおっしゃっている。それに関連して、小学生の4割が人は一度死んでも生き返ると思っているという調査があり、私は非常にショックを受けた覚えがある。
池上 テレビゲームなどと接している時間が長いからかもしれない。人間の死に方にはいろいろある。テレビドラマのような死に方はあまりなくて、もっとあっけないというか…。
石坂 小学生だと、人の死を正確に受け止められない、おばあちゃんが死んでも生き返ると思うのは不思議ではない。ただ、大きくなっても、リセットすれば生き返ると思うのは、想像力がないのかもしれない。
池上 自分の死をどうするか。自分が決め、決めたからには自分が責任をとるという自己決定の考え方を広げる必要がある。突然にそういうことを言われても難しいので、小中学校から考えるべき。自分の死について考える文化をつくっていかなければならない。
井田 命の問題は正面からとらえると、肩に力が入って冷静に見えなくなってしまう。軽い気持ちで、ユーモアを交えながら話していけたらいいな、と思う。
石坂 死について語るのは、例えば「言霊」という言葉があるように付いて回るようで、はばかられる。でも、こうして多くの方と死の話ができるのは大きな進歩ではないか。死への考え方は皆違うわけだから、一人ひとりが考えないといけないことだろう。