今年、創立150年を迎えた慶應義塾では、21世紀の現代社会が抱えるさまざまな問題や課題をテーマにした記念講演会「学問のすゝめ21」を全国13か所で展開してきました。その集大成として、東京・渋谷のNHKホールで「日本人のアイデンティティー」をテーマに、パネルディスカッションを開催。当日はシリーズ最大となる約2700名に参加いただき、財界、科学、教育分野というジャンルの第一線で活躍するパネリストと共に、これからの日本のあるべき姿を、かつて福澤諭吉が目指した理想の社会と重ね合わせながら考察しました。
2008年9月23日(火・祝)に開催された模様をダイジェスト版でお届けいたします。
■日本人のイメージとは
島国であるが故に穏やかな気質を持つ日本人
宇宙航空研究開発機構 宇宙飛行士/宇宙医学生物学研究室長 向井 千秋

宮本 本講演会では、近代化の過程で培われてきた日本人のアイデンティティーを振り返りながら、これからの日本人の在り方を探っていきます。まずは日本人のイメージについて話を進めていきたいと思います。
上田 どちらかというと日本人は、自分を一旦は自己否定して次に進んでいくことを是としているようなところがあります。若い人達のように自己を主張していくことと自己否定は表裏であり、この兼ね合いをどうするかということも今後、大切だと思います。,
茂木 日本人は特にものづくりについては勤勉です。これは日本人の持つ非常に大きなメリットであり、失ってはいけない部分。日本人は団結しながらその中で和を保っていくという点も優れていると思いますね。
向井 私は勤勉さやハングリー精神に国籍はあまり関係ないと感じています。島国である日本は、陸続きから国が侵略された歴史がないために穏やかな気質を持っていると思います。農耕民族と騎馬民族という違いがあるのかもしれませんが、自分のアイデンティティーを打ち出していく、これを無くすと自分の民族が滅んでしまうというような強さは、日本人には真似できないと思います。
坂村 福澤諭吉先生が、西洋と比べ日本にないものは、無形においての独立心だということをおっしゃっていますがその通りだと思います。自国のことを思って独立心を前面に出すということで言うならば、日本ぐらい国益を犠牲にしても世界のためにと考える国は少ないと感じています。
安西 和を大切にするあまり自分をすぼめてしまい、自己主張をしない、主張がないということでは、世界で通用しません。国際社会でコミュニケーションの機会を持ち、日本人のアイデンティティーをもっと色々な形で考えていくことは大切です。ただし自己主張ばかりでは国際社会で嫌われます。知識、教養、経験を積んだ上で、人に協力するという姿勢を持ちながら、自分を主張していく。「独立」と「協生」の精神がこれからの日本人に大切だと思います。
■日本人に足りないもの
相手に対して謙虚なのも日本人の思いやりのひとつ
東京大学大学院 情報学環教授 坂村 健

宮本 アンケートでは、日本人に思いやり、自己主張、礼儀、国際感覚、忍耐、我慢、協調性、文化や歴史に対する理解が不足しているという回答が寄せられました。
向井 思いやりがないことと自己主張をしないことは裏返しで、自己主張がきちんとできれば、他人のことを思いやり他人の話も聞くことができ、そこにディスカッションが生まれます。また日本人は皆が同じであることを良しとする傾向にありますが、他人と違うところに自分の魅力を見出し、もっと自信を持って自分を前面に押し出していいと思います。
茂木 議論のキャッチボールも足りていないように思います。日本人の依頼心の強さも問題で、誰かが考えてくれる、と自分で考えないことが自己主張がないとことにもつながる。日本人の自国の文化や歴史に対する理解は、私も低いと感じています。海外では自国に対して誇りを持たないと信頼されません。その辺りは再認識する必要があると思います。
上田 自己主張が大切という一方で、日本的な安らぎの世界を求めている外国人が最近多いようです。昨年、ドイツのお城で2週間ほど茶と禅セミナーを開催した時のことです。もとは医者でしたが、日本の庭園を作りたいと考え、庭園師となり成功し、お城を買われた方がいらっしゃいました。間仕切りに障子や屏風を使うなど、曖昧な空間、繊細な空間に安らぎを見出すという人もいるようです。日本人が欠点と思いがちな曖昧さが、外から見ると繊細で安らぎある空間として評価されていることを実感しました。
坂村 日本人は世界的に見ても謙虚ですよね。何かが起こった時に、人よりも自分が悪いと思う人が多いのではないでしょうか。謙虚すぎて、結局後悔してしまうのも日本人的なんですが。
安西 私は特に若い人達の元気と勇気が足りないと思います。福澤諭吉の青年時代は幕末から明治にかけての動乱期で、あの頃は黒船が来たわけですが、現在は産業、或いはファイナンスでさまざまなことが起こり、ある意味、幕末と同じような時代。若い人たちは国内外で数多くの体験を積み、日本は他の国よりも劣った国ではないということを自分の感覚でつかんでいく必要があります。それを自分の言葉にして、自分の力にして元気を出していくということが、とても大事なことだと思います。
■世界は日本人に何を求めているのか
無から感じる美の極致が求められている
茶道 上田宗箇流十六代 家元 上田 宗冏

坂村 今日のように変化が著しいネットワーク時代になると、日本の特質である、精緻化し、突き詰め、特化させ、安定に持ち込むという形より、そこまで突き詰めなくても次々と変化に適応していくという形が求められるようになります。そのような時代の中で世界が日本に何を求めているかと言った時に、もっとリードしなければいけないと力んでしまうとズレが生じてしまうと思うのです。日本がリーダーにならなくても、世界は日本を評価しています。無理をする必要はなく特質を生かし自然体でもっと活躍できると思います。そういう意味から「世界は日本に何も求めていない」と言えるのではないでしょうか。
茂木 日本の誇れるものの一つに日本の文化があると思います。海外ではクール(かっこいい)と言われています。この文化をどんどん発信すべきだと思いますね。私どものビジネスで言えば、日本の食文化です。この日本の食文化というのは、美味しくて健康にいいことから今、世界で非常に関心を持たれています。ただ問題なのは日本国内で、この誇るべき日本の食文化が変化した結果、メタボリックシンドロームが出現してきたことです。また日本の食糧の自給率が下がっているということもあり、日本の中で、日本の食文化に対して再評価すべきではないかと思います。
向井 海外から日本のすばらしさを認識することもあります。例えば紙に黒い丸を書くと、西洋人は黒い丸自体を、日本人は空間を見ると言われています。よく文章を読む時に、行間を読むと言いますよね。そういう文化や美意識はなかなか外国人には説明できないものです。例えばクロード・モネは浮世絵にも影響を受けていますよね。私自身は浮世絵をあまり知らなくても、逆にフランスに行って日本の文化に影響を受けていたんだということを知り、そのように日本が世界に対して発信しているものは随分あるんだと感じることはあります。
上田 欧米の人達は日本のシンプルということを非常に好みますがその代表的な例が花。欧米では花と言うとアレンジメントが主流ですからどこから見ても美しい花を活けていく。しかし我々は出来るだけ花の数を少なくし、そぎ落としたものを追求するわけです。今、向井さんが言われたように、見えない部分を見てもらおうと。結局それは無限のものを感じてもらえる可能性があるわけですから、とても感動される。無限のものが見られるということに対する、神秘性みたいなものに惹かれるんでしょうか。できるだけそぐことに美の極致がある、無限の広がりがあるというところが一番ですから、そこはすごく大きいことですよね。
■日本人が世界で活躍していくためには
自国の誇りを持ちながら日本から親離れして世界へ
キッコーマン株式会社 代表取締役会長CEO 茂木 友三郎

安西 慶應義塾では留学生を増やし、留学や研修のために海外へ送り出すプログラムを増やしています。優秀な留学生が増えることは、慶應のキャンパスで、多様な異文化、異なった背景を持った人達が互いに切磋琢磨しながら学べることにつながります。留学した場合は、海外の大学生と十分議論ができるような場を作っていきたいと考えています。言葉の壁はありますが、そういう体験を辛くても重ねていくことが、これからの時代の日本人には大事なことだと思います。
茂木 海外で仕事をする場合に一番大切なことは、それぞれの国、地域において、よき企業市民になるということです。そうしないと企業の存続はあり得ない。そのためには第一に現地の企業と積極的に取引をするということです。次に大切なのが現地の人を採用し登用していくということで、その国にあった人事管理が必要。海外で生活するというのは、日本の誇りを持ちながら、色々な意味で親離れをしないと、生活できないというのも事実です。外国では郷に入っては郷に従えということであり、日本流を押し付けると必ず問題が起こります。ソニーの盛田さんがグローカルということを言っていましたね。グローバルにものを考え、ローカルにことを進めるということですが、これはまさに名言だと思います。
坂村 世界で多くの人達が分かり始めてきたことは、自分の国一つでは全てできないということ。色々な人達が協力し合う、また国同士も協力し合うことで、未来の世界を作っていこうということです。世界はやはりいろいろな人達の協力でできるんだということを先ず理解して、コミュニケーションできる力を付けないとならない。全て日本がリードしていくというようなことよりは、現実的に日本の得意な部分をいかに外に出していくかということが大事なんだと思います。
向井 私は以前から国際宇宙ステーションの組み立てをやろうと思っていたわけではなく、日本人が宇宙に行けるという募集広告を見たことがきっかけとなり宇宙飛行士になりました。20世紀の科学技術はこんなにも進んでいて、いよいよ地球上で働いている人を宇宙にまで出張に行かせることができると思った瞬間、自分の住んでいる地球を見たいと思いました。そのことは視野を広げ、考え方を深めてくれると思ったのです。宇宙に行かなければ重力の不思議にも改めて気がつかなかった。宇宙に行かなくてもニュートンやアインシュタインは科学的にものを考えられるんだ、人間のクリエイティビティーはすばらしいと思いました。それが宇宙飛行を通じて私が学んだ一番面白かったことです。
■次代を担うこれからの日本人へ
独立自尊の精神を忘れずに世界で活躍して欲しい
慶應義塾長 安西 祐一郎

上田 青少年で言えば、挨拶をするなど、基本的な礼儀作法が身に付いていなく、共働きの家庭で子どもが一人、立ち往生している状況があるように思います。椅子の生活になり姿勢が保てないことで、心の安定が得にくいということもあります。家庭の型をどう再構築するかを考えるべき時だと思います。 茂木 グローバルスタンダードやデファクトスタンダードと言われているもののほとんどが欧米で作られていることは寂しいことであり、いくつかの分野で日本発があってもいいと思います。例えば環境問題や食糧問題。小さな島国で資源の乏しい日本はこれらの問題に関してもっとリーダーシップを発揮しなければならないのです。
坂村 日本という国と日本人は別だと思います。日本にいられない人には別の世界があることを教えてあげるべき。日本が世界に類をみない安定をつき詰めた国になっている以上、これは変える必要はなく、日本人が変わるためにもっと日本以外の国に出て行こうと言いたい。そうすれば日本が世界に貢献できるとも思います。
向井 十人十色、価値観は違うけれども、その子の持っている良さを引き出すおおらかな教育法が望ましいと思います。また若者だけが頑張ればいいということではなく、何かに追いつこうとするお手本を大人が示したうえで一緒に頑張っていかないと、いい形にはならないと感じています。
安西 日本の若者達には、日本のことをもっと勉強してもらいたいと思います。そして世界のどこへ行っても、自分の考えを自分の言葉で伝え、責任を持って行動できる。それが独立ということであり、福澤諭吉の言う独立自尊の精神ということだと思います。また色々な文化圏の間の利害得失、軋轢を越え、協力して生きることを先導していってもらいたい。国の中で小さくなって生きていくのではなく、夢と独立心、協力して生きていく心を持って、世界で活躍していってもらいたい。それが日本人としてのアイデンティティーになっていくことを願っています。