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学問のすゝめ21 メルマガ

「学問のすゝめ21 メルマガ」では、現在の慶應義塾の「知」を発信するとともに、皆様とともに「学ぶ」楽しさを再発見するきっかけをご提供できればと考えています。

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特集 教養とは知の土台であり生命現象の一部である

 

今、大学における教養教育のあり方が問い直されている。文部科学省委託研究「教養教育研究会」の座長および、慶應義塾大学教養研究センターの初代所長として、大学における新たな教養教育の研究を続けている羽田教授に、教養とは何か、そして21世紀における教養教育の可能性についてお話を伺った。
(インタビュー:2009/5/14)


  ▲羽田功教授からのショートメッセージ

< 目次 >


今の自分を支えてくれる知の土台

慶應大学「教養研究センター」とは、どういうものなのでしょうか。

このセンターは、社会や時代の変化に対応し、その要請に応えられる教養教育を構築することを目標として、2002年7月に設立されました。慶應大学の教養教育の拠点である日吉には、いろいろな分野のさまざざまな先生がいるわけですが、それをまとめて新しいものを生み出していく制度やシステムが十分に用意されていなかったため、それを活かせるような組織を作ろうというのが、このセンター設立の理念であり方向性でもあります。

私は3〜4年間の準備期間を経て、初代所長としてこのセンターの設立に携わると同時に、2001〜2002年には文科省から委託された「教養教育研究会」の座長も務めました。研究会には幅広い年齢のメンバーが参加していて、「教養とは何か」という、いわゆる「教養観」についてはさまざまな意見があり、とても言葉で定義できるものではないと感じました。しかし、「今やっている専門の勉強に、自分なりの教養が役立っている」というのは共通した認識でした。具体的に基盤になっているものは、哲学、音楽、歴史、物理学などそれぞれ多岐に渡っているわけですが、それらが現在の自分を支えてくれている知の土台になっていて、その上に自分の専門の研究が育っているという関係性は、すべての人に共通するものだったのです。



教養はその後の「知の土台」になりうるということですね。では、教養教育の役割とは、どういうものなのでしょうか。

将来の自分を支えてくれる土台を作るためには、どんな環境を用意すればいいのか。そのためのシステムを構築し、若い人が土台を作るチャンスや場を与えることが、教養教育の大きな枠組みになると考えました。まずは土台を作ることで自分をしっかり固め、自らを見る目を養う。その次に必要なのは、人と人とのつながりです。土台を持った人間同士がつながり、触れ合っていくことが、次の段階として土台を広げていくきっかけになるのです。自分の築いた土台を相手に伝え、相手の土台から自分に何かを取り込んでいくという他者とのつながりから、新しい可能性が生まれてきます。そういった土台の作り方や広げ方を提供できる教育システムがしっかりできていれば、教養を一生涯積み続けていくことにもつながるはずなのです。

そもそも教養が培われる過程においては、他者との関わりによる刺激が不可欠なのに、その刺激を作り出すような仕組みが、今の大学における教養教育には見当たらなくなっている。それを改めて作っていこうというものでもあるのです。



そもそも、今教養教育が見直されているのには、どんな背景があるのでしょうか。

1991年文科省の大学設置基準改正により、一般教育と専門教育の区分が廃止されました。各大学は4年間の学部教育を自由に編成できるようになった結果、教養教育が軽視される風潮が生まれてしまいました。しかし、基礎的な学力や教養という基盤が脆弱になってしまうのはゆゆしき問題です。きちんとした土台ができていないと、専門教育のやりようがないのです。そこで、再び教養教育の必要性が見直されることになりました。しかし、昔のシステムをそのまま復活するのではなく、21世紀型の新しい教養教育を作っていかなくてはなりません。大学入学直後の導入段階から2年間に、知的な基礎体力としてどんな土台が作れるか、それを問い直しているのです。



 

身体知によって、近景→中景→遠景と広げる学びのグラデーション

最近の学生は、学力が低下しているとも言われますね。

いろいろな意味で世の中がグローバル化する中で、昔の学生に比べて学ぶことが多くなっているのも事実です。学ばなくてはならない空間や時間、情報量は格段に増えているわけですから。しかし、それとは別に最近の学生は、知らないことへの引け目とか、ある種のプライドとか、そういうものが不足しているように感じます。「やってません、知りません」ということを、いともあっさりと言ってしまう。知的な関心から想像力を育むことは絶対に必要なのに、今の学生たちは、知的活力を自らそいでしまっていて、想像力が貧困化しているという危機感を感じています。彼らが想像力を広げていけるような刺激を与え、知的関心を駆り立てる場をどうやって作れるか、それも課題だと思います。



ネットで調べただけで、簡単にわかった気になってしまうケースもありますよね。

自分を取り巻く世界を構図化してみると、近景・中景・遠景に分けることができます。近景とはすなわち自分や自分の身の回りの人や物。ここが入り口になります。ネット社会になって、遠景は意外に簡単に視界に入ります。しかし、その間にある中景がすぽっと抜け落ちている。それはたとえば、自分の住んでいる地域や県、国、そしてアジアといったものです。まず近景を見つめるのは大事ですが、次に目を向けてほしいのは中景としての自分のまわりの地域や日本で、その後に遠景へと広げていってほしいのです。

現在は、ネットを使えばなんでも簡単に調べれられる環境があるために、実際に自分で経験したり足を運んだりすることなく、わかったような気になってしまう、それが大きな問題だと思います。もっと、自分の身体を通して学んでいくという学び方が必要です。日本語には「身にしみる」という言葉がありますが、まさにその感覚が非常に大事なんです。

知識も必要ですが、それを実際に生かしていくための実体的な経験を踏むことによって、自分の近くから徐々に遠くに目を広げていくというプロセスを体験させたい。近景に対する意識や中景に対する感覚をしっかり養った上で、最後に遠景の部分に関心を持っていく。そこで一番自分のやりたいこと、専門としてやっていきたいことにつながっていくという形で社会に出て行ければ理想的です。

そのためには、対象物に対して自分が自主的に関わっていくのだという意識を持てるよう、段階を経て関心を広げていく形の教育プログラムも必要だと思います。こうした「身体知」による学びのグラデーションを大学時代に一通り体験しておけば、あとは社会に出て自分が与えられたポジションで、それを応用していけるはずです。そのための土台を作るのが教養教育だと思います。



教養研究センターでは、地域とコラボレーションしたセミナーも行なったそうですね。

教養教育を進めていく新しい試みの一つとして、昨年、慶應義塾の鶴岡タウンキャンパスにおいて、生命をテーマにした鶴岡セミナーを行いました。海や山など自然が豊かで「命の宝庫」でもある鶴岡という場所で、いろいろなトピックを通して、生命、いのちに目を向け直す経験を積み、自分の土台を広げることを目指したものです。

鶴岡という土地は、距離的にも東京から少し離れた、いわば「中景」といえる位置にあります。したがってこれは、まさに見落とされがちな「中景」に目を向けさせる試みでもあります。また、このセミナーには、鶴岡市の関係者や慶應義塾の卒業生、東北公益文科大学の学生など、地域や世代を超えた多様な人びとが参加しています。地元の学生たちと、都市型の生活感を持っている慶應の学生たちとでは、同じ学生であっても目線や考え方には違いがあります。それをお互いにぶつけ合って、新しい価値観を広げていくきっかけにしたいという狙いもあります。今はフィールドを庄内地域に広げた庄内セミナーを準備中です。



 

呼吸が止まるまで「教養する」ことを続ける

教養としての土台作りというのは、いわば、「自分の根を生やすこと」とも言えそうですね。

「根」と考えるならば、若いうちに根を何本も作っておいてほしいですね。根が複数あれば、何か辛いことがあったときに、1本の根がダメになっても、他の根が支えてくれます。困難な状況でギリギリのところで自分を支えてくれるような、どんな根っこを選択できるか、自分の中にそれを持っているかが大きな鍵となります。そして、その先で余裕ができたときにまた、根を太くしたり、他の根とつなげて増やしていく。それを繰り返すことで、やがて豊かな森となり、人間は成長していけるのです。ですから、まず、最初の1本の根を作ること、そして、その根をどれだけ広げていけるかが、その後の人生に大きく関わってくるのだと思います。



先生にとっての複数の根とはどんなものでしょう?

私が専門であるドイツ文学を志すきっかけになったのは、中学の先生から「人間が虫になる話がある」と言われてカフカを読んだことが始まりでした。一方で、学生時代は友人の影響で芝居にのめり込んでいました。1年で120〜130本も観に行きましたし、自分で脚本を書いたこともあります。今思うと、少年の頃に読んだ本から始まった「言葉」への関心が最初の根となって、その後の専門である「文学」や、趣味としての「芝居」という新たな根につながっていったのかもしれません。

その後、カフカがユダヤ人であったことから、ユダヤ研究にフィールドを広げていくわけですが、その研究活動や教養に関するプロジェクトを進める中で、人との関わりあいから大きな刺激を受けたことが、新しい価値観につながっていきました。根というのは、自分がどこまで関われるかという関心の対象にもなると思います。複数の根を持っていることで、2つ目、3つ目をやると必ずその先に新しいモノが見えてくる。そういうアクティブな気持ちを持っていると、自ずと世界が広がり、それぞれの根がつながってさらに成長し、やがて大きな森になるのです。



大人になっても、根は広がり続けるということでしょうか。

私は「教養」というのは名詞ではなく、動詞的にとらえるものだと考えています。つまり「教養がある」とか「教養がない」とかそういうステイタスではなくて、「教養する」という動きであるべきだと。新しい根を作って、増やして、間を埋めて、森を作って、というその作業そのものを、教養と呼ぶべきだという考え方です。そして「教養する」ことをどこまで続けていけるのかが重要で、教養しなくなったら、その段階で森という生命現象の一部が止まってしまう。そういう意味では、教養は生命現象の一部であるとも言えると思います。



現在、慶應義塾では、社会人も対象にした「福澤諭吉記念文明塾」という講座が開かれています。教養という観点から見ると、これはどういう位置づけになるでしょうか。

福澤文明塾は、福沢の時代の塾のあり方に目を向け直すことが大きなポイントとなっています。それを振り返りながら、塾の原点にあった学びのあり方をもう一度共有するという役割を担っていると考えています。塾の出発点にあった理念を今後どういう形で未来志向に展開できるのか、文明塾はその実験の場であるとも言えます。

草原しかないところに福澤が一本の苗を植え、それが広がり森になったのが今の慶應大学だとすれば、今、もう一度その森を活性化するために、森の内外からさまざまなタネを拾ってきて蒔くという作業にも例えられるかもしれません。それらが新しい土台として元からあった根とつながって、森が平面から三次元的空間に広がっていくようなイメージです。森が森として生き続けるために、新しい時代の森の姿を模索していくとでも言いましょうか。豊かな森として生き続けるためには、タネを蒔き続けなければなりません。生命現象には教養し続けることが必要という考え方からすると、福澤文明塾は、まさに慶應が「教養している」姿の一部であるとも言えますね。



 

インタビュー聞き手

創立150年記念事業室 プロジェクトディレクター 本間 浩一 /ライター 永井 祐子


プロフィール

羽田 功 教授羽田 功(はだ いさお)
慶應義塾大学経済学部教授
慶應義塾大学大学院文学研究科独文学専攻博士課程からドイツ・ミュンヘン大学留学を経て現職に。国立民族学博物館共同研究員(2000年4月〜2006年3月)、文部科学省委託研究「教養教育研究会」座長(2001年1月〜2002年3月)、慶應義塾大学教養研究センター所長(2002年7月〜2004年9月)を務める。専門は近代ドイツ文学・文化およびユダヤ問題。


【福澤諭吉記念文明塾】 http://www.fbj.keio.ac.jp/
慶應義塾創立150年記念事業の一環として、グローバル社会に貢献する次世代のリーダーを育成するため、さまざまな分野の第一線で活躍する方々を講師に迎え、学部生、大学院生および社会人を対象に、4ヶ月間で全20回(予定)の講座を年間2期ずつ開講。現在、2009年第2期生の募集説明会を開催中。

【慶應義塾大学教養研究センター】http://lib-arts.hc.keio.ac.jp/
時代と社会の要請に対応できる教養教育の総合的なモデルの創出を目標として開設。多分野、多領域にまたがる内外の交流・連携に基づいて教養に関する研究活動を推進している。

 

 

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