「学問のすゝめ21 メルマガ」では、現在の慶應義塾の「知」を発信するとともに、皆様とともに「学ぶ」楽しさを再発見するきっかけをご提供できればと考えています。

日本の高齢化は今後ますます加速すると予測されている。誰もが避けては通れない、家族と自らの病や老い、そして看護や介護という問題に、私たちはどう向き合っていけばいいのか。コミュニティケアや在宅看護を専門とする看護医療学部の原礼子教授に、お話を伺った。
(インタビュー:2010/4/1)
< 目次 >
人の死は、自分ひとりのものではない
看護という分野を志したきっかけは?
小学生時代に杉田玄白やシュバイツァーなどの伝記を読んで、また母が幼い頃から病弱だったことなどから医療という分野を身近に感じていました。その後、高校生の頃にあるテレビ番組を見たことがきっかけで、保健師という職業に強い関心を持ったんです。その番組は、病院もない山奥の小さな村に赴任した新米の保健師が、奮闘しながら成長していく姿を描いたものでした。そのときに受けた強い印象が、今の職業を選んだ原点かもしれません。地域住民の生活に近いところで健康を守る保健師になりたいと思い、大学の看護科に進みました。(「保健師と看護師の違い」はこちらを参照)
先生は保健師と看護師両方の資格を取得され、卒業後は看護師として病院に勤務されたのですよね。
大学で4年間学ぶうち、いきなり保健師として地域に飛び込んでいくよりは、臨床の現場で技術を磨くことも必要だと考えるようになったんです。「生きることと死ぬこと」には元々関心があったのですが、病院ではより深く「死」について考えさせられることが多かったですね。
ある患者さんが亡くなったときには、泣き崩れる奥様の肩を抱きながら、「人の存在は自分ひとりのものじゃないんだ」ということを痛切に感じました。それまで私は、人は自分の死を決める権利があると考えている部分があったんです。けれども、残される人にとっては、さっきまで目の前にいて、何らかの形で自分が関われる存在であった人がいなくなってしまうわけです。その悲しい事実を目の当たりにして、自分の考えには不遜な面もあるのではと感じました。またあるときは、勤務時間外に癌の患者さんのところに行って、「今の気持ちはどうですか?」なんていう話を聞かせていただいたこともありました。今考えると若気の至りで恥ずかしいのですが、当時は自分なりに「死」というものと向き合うために、何かせずにはいられなかったのでしょう。
生身の死を間近に見て、貴重な学びを得たわけですね。
人は、いろいろな場所で人と出会い出来事を経験する中で、さまざまなことを学んでいきます。でも、そのときの自分の状態によって、そこから得る学びの意義や深さは大きく変わってくるんだと思います。そして、学んだことを自分の生き方や考え方と照らし合わせて、自分の問題として内面化することが大切です。そういう意味でも、私はこの臨床での経験で本当にたくさんの貴重な学びをさせてもらったと思います。
社会的な存在として患者を支える必要性
その後大学に戻られて、社会学を学ばれていますね。これはどうしてですか?
私が配属されたのは難病の患者さんが多い病棟でした。そこでは完治して退院されるケースは少なくて、ほとんどの方がなんらかの障害を抱えた状態で家に戻られるんです。こんな状態でいきなり自宅に帰って大丈夫なのだろうか?と不安に感じたものです。年老いたお母様が難病の患者さんを1人でお世話をしている姿などを見て、このままではダメだということも強く感じました。
たとえば、病院から自宅に戻るまで、ある一定期間ケアをする中間施設が必要なのではないか。医学的に病気を治すというだけではなく、患者さんや家族を社会的存在としてどうサポートしていけるのか。そんなことを勉強してみたいと考えるようになりました。それで、社会学の修士課程に進み、修了後は日本看護協会で制度改革への調査、提言作りなどの仕事を経て、大学の教育職に就きました。
患者さん本人や家族を支えていくための、社会的な支援体制の必要性を感じたということですね。
たとえば、認知症の家族がいた場合、身の回りの世話は介護サービスでまかなえても、日々接している家族としては気持ちがいらだつこともあるし、またそう感じてしまう自分に対して自己嫌悪に陥るなどして、1人ではどうしても行き詰まってしまいます。家族が患者さんのために尽くすのは当然と思われていますが、じゃあ家族は犠牲になってもいいのか、という問題もありますよね。
そんな人たちをたくさん見てきて、家族の立場にたったケアの必要性を感じ、今「家族支援実践センター」を設立したところです。既存のサービスで対象となるのは患者さんや療養者本人だけですが、家族が体調を悪くしたときのケアなど、本人とその家族に関わる問題に対してもアプローチしていくことができければと思います。
生きてきた歴史を尊重し、本人が望むものを考える
先生ご自身も、お父様の介護のご経験があるそうですね。
父は宮崎にいたのですが、当時私は東京の自宅から福島の大学に新幹線通勤をしていたので、東京、宮崎、福島を行ったり来たりの生活が続きました。できる限りのことはしたつもりですが、私自身も体はクタクタで、あまり寄り添ってあげられなかったのではないか、寂しい思いをさせたのではないかと思うと、今でも切ないですね。
父を見ていて考えたのは、ケアされている本人は何を望んでいるのだろうということです。本人が望むか望まないかにかかわらず、家族の状況や制度の都合などでいろいろなことが決められていきがちです。でも、年老いて心身の力が衰えていく中で、本人はそれをどう感じているのだろうと。
家族もぎりぎりの状況で、本人の意志を尊重するのは困難なこともあるのでは?
私が父の介護で目標にしたのは、「ベストはできない、でもワーストは避ける」ということでした。どんなに頑張ってもパーフェクトにはできません。でも、最低限ワーストな選択は避けたいと。父にとってのベストは、私が常にそばにいてあげること。でも、それは困難です。だったら、せめて本人が希望しない「施設に入れる」というのはやめようと思いました。そして、父が嫌がることはなるべくしない。父が大切にしているものを尊重してあげる。たとえば、痛いことはとても嫌がる人だったので、注射はさせたくない。やたらに薬も飲ませたくないとか、1人で食事をしたがらないのでなるべく一緒に食べてあげるとか。
家族以外の看護や介護に携わる人たちも、その人がどんな風に生きてきたのか、どんなことにこだわっていたのか。そこを理解し尊重しようとすれば、本人の意志に寄り添えるはずです。その上で、目の前の選択肢の中からよりよいものを選んでいければいいですね。大事なのは、今目の前にいる弱った姿だけを見るのではなくて、その人にはそこまで生きてきた歴史があるのだという当たり前の事実を、きちんと認識することなのだと思います。
孤立しないコミュニティを、1人1人が築いておく
家族といえど、本当に本人が望むことを察するのはむずかしいケースもありそうです。
将来面倒を見てもらう立場からすれば、元気なうちに自分で家族に希望を伝えておくのもいいかもしれません。私自身も子供たちに対して「お母さんが何を大切にして生きていたか、どんなものが好きだったか、それだけは覚えておいてね。それさえ忘れなければ、どんな施設に入れてもくれてもかまわないから」と話しているんですよ。家族に迷惑をかけたくないと思っても、実際はそうはいきません。だったら、「いざというときはこうしてほしい」「これはやらなくていい」という自分の考えを話しておいたらどうでしょうか。
将来のことを含めて、普段から話し合いの機会を持つことが大事なのですね。
私の父はアルツハイマーだったのですが、行方不明になったり、何度言っても同じことを繰り返したりする姿を家族も見ていました。父が元気だった頃を知っている子どもたちにとって、大好きなおじいちゃんのそんな姿を見るのは悲しかったでしょうが、貴重な経験になったと思います。
父自身、妻である私の母を看護していた時期があり、そのとき母の病状だけでなく自分の気持ちを私にも話してくれていたんです。ですから、私も父の状態や私の気持ちを子どもに話すようにしていました。ありのままを伝え、どういう風に感じているのかも含めて親子で語り合うという経験から、人は人とのつながりの中で生きていることや、人を大切に思う心を学んでいってくれればと思います。
ただ、現実には家族が対応しきれないケースもありますよね。
父の介護では、実家の近所の方にずいぶんお世話になりました。父自身が地域に貢献したり、周りの人のお世話をしたりという積み重ねがあったからこそ、まわりの方も父のことを大事にしてくださったんだと思います。今は、65歳以上の独居世帯が20%を超え、家族といっても別居の家族というケースがほとんどです。「遠くの親戚より近くの他人」という言葉もありますが、家族に限らず多様な形で地域の人々との関係性を築いていくことも必要なんじゃないでしょうか。
「困っているから助けてほしい」と声に出せる社会づくりのために、行政ができることもあるでしょう。でもそれ以前に、お互いに助け合えるような関係性を私たち1人1人が築いておくことも大事だと思います。いざというときに孤立しないコミュニティを、自分自身で作っておくということです。人はみな、いつかは老いて弱る日がきます。そのときのために、若いうちから自分の来し方と行く末をしっかりと見据えておく姿勢が問われている、今はそんな時代なのかなと思います。
保健師は地区活動や健康教育・保健指導などを通じて、疾病の予防や健康増進などを行う地域看護の専門家です。一方、看護師は療養上の世話や診療の補助が主な仕事ですが、訪問看護など地域での活動や病院内の特定領域の専門看護師、認定看護師として活動を行っています。どちらも専門学校か大学で規定の科目を修了した後、国家試験で認定されるもので、両方の試験を同時に受験することも可能ですが、保健師は看護師の資格を有していることが条件となるため、看護師試験が不合格であれば、保健師資格もとれません。

慶應義塾大学 文学部 教授 神崎 忠昭 / ライター 永井 祐子

原礼子(はら・れいこ)
慶應義塾大学看護医療学部教授
1951年生まれ。1974年高知女子大学家政学部卒業後、北里病院にて看護師として臨床の現場を経験。1976年、高知女子大学家政学部看護学科助手。
1981年、日本看護協会卒後教育部、調査研究室を経て1985年より東邦大学医療短期大学地域看護学専任講師、日本赤十字看護大学地域看護学助教授、福島県立医科大学看護学部ケアシステム開発部門地域看護学領域教授。現在に至る。