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トップページ > 学問のすゝめ21 メルマガ > vol.24 安藤広道

学問のすゝめ21 メルマガ

「学問のすゝめ21 メルマガ」では、現在の慶應義塾の「知」を発信するとともに、皆様とともに「学ぶ」楽しさを再発見するきっかけをご提供できればと考えています。

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モノから歴史を組み立てる 塾内の考古学資料の研究・保存・公開に取り組む

 



協力:年表共有コミュニティ
年表例:福沢先生
慶應義塾では、2009年9月末、日吉キャンパス蝮谷体育館の新築工事に伴う掘削中、戦時中に帝国海軍の中枢機能が置かれた地下壕の入口が発見された。こうした過去の遺跡や遺物から歴史を読み解くとはどういうことなのか。考古学がご専門で、今回の調査にも携われた安藤准教授にお話を伺った。


(インタビュー:2010/5/27)

 

< 目次 >



考古学とは、モノを通じて歴史を構築する学問である

考古学を志したきっかけは、どんなことでしたか?

考古学への関心が芽生えたのは、小学校の頃ですね。夏休みの自由研究などで、地元の遺跡を調べたりしていました。当時、横浜市の北部では港北ニュータウンの開発が始まっており、その発掘調査の現場を見に通ったことで道が決まったように思います。実際の発掘現場で掘り出された「なんだかわからないもの」が、専門家の先生によって、いつの時代のどんなものなのか解き明かされていくのを見て、将来は自分も考古学の学者になりたいという夢を抱きました。

具体的には、考古学のどんな点が魅力だったのでしょう?

実をいうと私は、そもそも歴史はあまり好きじゃなかったんです。どちらかというと理系的なものに関心があり、機械いじりなどが好きな少年でした。考古学は、発掘された「モノ」からその当時の生活や歴史を明らかにしていく学問です。その「モノから組み立てていく」というプロセスと、電子部品の組み立てなどに通じる私の理系的な関心とが、合致したのかもしれません。


考古学の中にもいろいろな分野があると思いますが、今のご専門に行き着くには、どんないきさつがあったのでしょうか。

中学生の頃は古墳時代に興味があり、前方後円墳など大きな記念物的なもの、そしてそれらを作った人たちのパワーに惹かれていました。しかし、高校2年のときに『日本考古学を学ぶ』という本の中で、慶應義塾大学の鈴木公雄先生が書かれた「縄文時代論」という論文を読んで、考古学の新たな魅力に気づかされたんです。

そこには「縄文時代の人たちがどんなものを食べていたのか」ということが書かれていました。鈴木先生は、土器など実際に発掘して手元にあるものから一歩進んで、縄文時代の食糧構成全体の問題を論じていました。それまで土器や住居跡などの研究というイメージしか持っていなかった私は、これを読んで初めて、その時代の人々の生活そのものにも大きく興味を持ちました。こんな研究方法もあるのかと大いに刺激され、食糧の研究は、その後の私自身の研究テーマのひとつの柱となっています。

鈴木先生の本に影響を受けて慶應義塾大学に進んだ後、今度は岡山大学の近藤義郎先生の『前方後円墳の時代』という本を読んだことも、私にとって大きな転機となりました。この本では、遺跡の分析から、弥生時代や古墳時代の「社会の変化」を、体系的・論理的に説明していました。モノから歴史を全体的に論じるという構成力に驚嘆し、考古学でこんな風に歴史を描き出せることに大きな衝撃を受けました。近藤先生の研究の対象は主に西日本の遺跡だったので、じゃあ私は、東日本の弥生時代史を、近藤先生と同じような形で描き出してみようと決心しました。

 



 

すべての時代の、あらゆるモノが、考古学研究の対象となる

先生が考古学に携わるようになった頃と比べて、研究のテクニックは変わってきていますか?

一番大きな違いは、対象とする資料の幅が飛躍的に広がったということですね。たとえば竪穴住居址を掘ったときに出た土を分析すると、食糧となった炭化した種子などが出てきたりします。さらに、石器についたデンプン、土の中の花粉など、目に見えない細かいものも、分析機器の発達や、関連分野の研究の蓄積などによって、現在では考古学の資料となります。つまり、人間の諸活動を明らかにする物質的な証拠であれば、どんな細かいものでも、その対象となるということです。



それだけ資料の範囲が広がってくると、必要とされる知識も変わってきますよね?

最近の考古学では、文系・理系の壁はなくなってきていると思います。さまざまな分析機器を扱うのは当たり前ですし、過去の気候、地形といった自然環境や年代などを明らかにしていくために、理化学的な知識も必要になります。私の場合も、食糧の研究のためには、遺伝学や作物学、土壌学なども勉強しなくてはなりません。そういう意味では、理系的な側面が増えていることは確かですね。私自身は元々理系少年だったので、そういう流れはまったく苦になりません。


考古学が対象とする「時代」も広がってきているのでしょうか?

一般の人には、考古学とは石器や古墳といった時代を扱うものというイメージがあるかもしれませんが、ここ2、30年で江戸時代ぐらいまでを扱う研究者がずいぶん増えました。それに加えて最近は、より新しい時代の研究も盛んになってきていて、アジア太平洋戦争期やそれ以後の活動の物的痕跡を考古学的に研究しようという動きも出てきています。

人間が日々生きている物質的な世界のモノには、すべてなんらかの形で過去の情報が刻み込まれています。そこから当時の人々の活動の痕跡を見出すという考え方からすると、歴史学として研究する意義があるものであれば、それがたとえ1年前でも考古学の対象となり得るのです。つまり、人類の歴史であれば、どんな地域もどんな時代も研究の対象にできるというのが、考古学の特長であり魅力でもあると思います。


先生は、博物館での勤務経験もお持ちですよね。それは現在の大学でのご研究に何か影響を与えていますか?

博物館での仕事は、自分が興味を持っている分野だけを扱うわけではありません。必要に応じて幅広い調査や研究を繰り返しているうちに、自分がやりたいからやる、というよりも、博物館の活動として求められることをやっていくという研究の重要性を、強く意識するようになりました。

一方、大学では、それぞれの研究者が、自分が興味のあるところを深く掘り下げていくのが基本です。慶應の民族学考古学研究室には、これまで多くの研究者が残した遺物が大量にあります。しかし、それを収集した研究者がやめてしまうと、残された資料は、残念ながらそのまま忘れ去られてしまうことが多いのです。私が慶應に来た時点では、すでに、どこに何がどれぐらいあるのか、全体を把握している人がいない状態になっていました。

せっかくの資料も、整理しないで置いてあるだけでは死蔵になってしまいます。遺跡は一度発掘すると壊れてしまいますから、そこで得られた遺物や記録は、きちんと管理をして保管する責任があります。博物館勤務でこうしたことの重要さを認識していたこともあり、これではダメだ、きちんと管理しなければと考えました。それで、今私の調査・研究の中心のひとつになっている、慶應に収蔵されている遺物の分析とその成果の報告という仕事を始めたわけです。




 

日吉は戦前から知られていた遺跡の宝庫

昨年、日吉キャンパスで見つかった地下壕の遺跡発掘にも関わられたのですよね?

日吉は、日本で最大の弥生時代の竪穴住居址を含む巨大な遺跡として戦前にはとても有名な遺跡でした。しかし、戦時中に帝国海軍の拠点となり、戦後も米軍に接収されるという経緯を経て、キャンパスは大きな被害を受けました。1949年の返還時には、キャンパスの復興を急ぐことが優先され、遺跡の存在は顧みられることがなかったようです。その後、遺跡はもう壊れて失われてしまったものとして、だんだん忘れ去られていきました。

しかし、学生時代にキャンパス内の工事中の地層断面に自分の目で竪穴住居址を見つけたこともあり、日吉にもまだ遺跡は残っているはずだと、私は考えていたんです。それで、赴任後、実際どのぐらい残っているかを確かめようと思いました。そんな折、創立150年記念事業が本格的に始まり、新しく建物を建てるところを調査することになりました。

実際に調査してみると、想像以上に多くの成果があがりました。現在の第4校舎独立館が建っている場所では、弥生時代終末期のものとしては、全国的に見ても大規模な竪穴住居址が発見されました。さらに、蝮谷の体育館用地では、アジア太平洋戦争時に帝国海軍の軍令部という組織が使っていた地下壕の入り口が見つかるという、大きな発見がありました。


その地下壕については、記録などは残っていないのですか?

軍令部が使っていた地下壕は、もちろん存在自体は知られていたのですが、戦後埋め戻されてしまっていたため、入口の正確な位置がわからなくなっていました。ごく新しい時代のものなので、記録がたくさんありそうなものですが、軍に関わる証拠は機密事項でもあり、記録としてはほとんど残っていないのです。当時そこで働いていて今なおご存命中の方もおられるのですが、軍は縦割り組織なので、自分が属していた部署以外のことはわからないようで、結局、この地下壕については、あまり情報がなかったわけです。そんな状況において、地下壕そのものや、帝国海軍の軍事的活動を明らかにする方法として、考古学が重要な意味を持つのではないかと思います。
実は、この地下壕については、当時、横浜市は文化財として認めていませんでした。ですから、極端な話、壊してしまってもお咎めはなかったはずです。それでも、慶應の判断の下で、歴史資料としての重要性を見出し、お金をかけて調査をしたということは、とても誇らしいことだと私は思っています。現在、文化庁では戦争遺跡を国の指定史跡として保護していこうという動きがあると聞いています。近い将来、日吉台の地下壕が国の史跡になることはまちがいないでしょう。

 

 

考古学の資料は、整理・公開して活用されるべき

遺物や遺跡は、きちんと管理して保管することが大事というお話がありましたが、では、それらはどのように活かされるべきだとお考えになりますか?

多くの人が利用できるように公開していくことが義務だと思います。何か問い合わせがあったり、資料を利用したいという依頼がきたときに、それに対してきちんと応えられるような状態にしておくことです。たとえばこの地下壕だったら、アジア太平洋戦争の研究に活用できるように公開するなり、平和教育に活かせるような体制を整えておくなり、幅広い人に利用してもらうことを考えていくべきだと思います。


収集した遺物を管理して公開するには、博物館を作るという方法もありますよね。

考古学に限らず、大学の研究には長い歴史があって、その成果が積み重なっていくものです。その蓄積された知的財産を有効利用できるシステムというのが、まさに博物館だと思います。残念ながら今のところ慶應には博物館がありませんが、今自分たちが持っているもの、大学の中に眠っているものをきちんと整理して、慶應内外の人たちが広く利用できるようにしていこうと考える研究者が増え、その実績が蓄積されていけば、博物館の必要性がより強く認識されるようになるのではないでしょうか。


私自身、博物館での経験から「求められることを研究する」というやり方が確立したこともあり、今やっている、研究室にある遺物の整理・分析や、キャンパスの遺跡調査も、そんな視点から、「誰かがやるべき必要性があること」という考えでやっていることです。今、私にできること、そしてやらなければならないことは、そういった博物館的な発想からの研究を根付かせて地固めをすることだと思っています。

日吉一帯の弥生時代・古墳時代の遺跡と
地下壕
(クリックして拡大)
現・第4校舎独立館で発見された大型の住居址
(クリックして拡大)
発掘された地下壕入口
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地下壕内部の調査
(クリックして拡大)

 


インタビュー聞き手

慶應義塾大学 文学部 教授 神崎 忠昭 / ライター 永井 祐子


プロフィール

安藤 広道
安藤広道(あんどう・ひろみち)
慶應義塾大学 文学部人文社会学科准教授


1964年10月生まれ
1987年3月 慶應義塾大学文学部史学科民族学考古学専攻 卒業
1989年3月 慶應義塾大学大学院文学研究科前期博士課程 修了
1992年3月 慶應義塾大学博士課程文学研究科史学専攻 単位取得退学
1992年9月 財団法人横浜市ふるさと歴史財団(横浜市歴史博物館)学芸員
1998年6月 東京国立博物館研究員
2004年4月 慶應義塾大学文学部助教授
現在に至る

学びのタネ

●2010年度三田史学会大会シンポジウム「キャンパスのなかの戦争遺跡―研究・教育資源としての日吉台地下壕―」が開催されます。

日時:2010年6月26日(土)13:00〜16:30
(無料・事前申込不要・どなたでもご参加できます)
会場:慶應義塾大学三田キャンパス(港区三田2-15-45)西校舎517番教室 
プログラム:
報告1
「軍令部第三部等地下壕出入口の発掘調査成果」 慶應義塾大学文学部 安藤 広道
報告2
「日吉台地下壕保存の会の活動」 日吉台地下壕保存の会 新井 揆博
報告3
「戦争遺跡研究の現状と課題」 山梨学院大学法学部 十菱 駿武
コメント1
「中国における日中戦争遺跡」 中部大学人文学部 一谷 和郎
コメント2
「ベルリンの地下壕 −特に総統地下壕を中心に−」 慶應義塾大学文学部 神田 順司
コメント3
「アジア・太平洋戦争と慶應義塾」 慶應義塾福澤研究センター 都倉 武之


慶應義塾大学日吉キャンパスの第4校舎独立館1階D101教室前に、独立館建設時に発掘された弥生時代〜古墳時代の土器を展示しています。
日吉台の弥生時代〜古墳時代の遺跡の内容や、歴史的意義なども解説していますので、是非ご覧いただきたいと思います。


 

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